レポート
2023/04/30
世に身心障がい者はあっても 仕事に障がいはあり得ない
「太陽の家」の共同出資会社は現在7社。障がいのある従業員に対して、企業が技術指導や運営・管理を行い、「太陽の家」が健康管理や日常生活を支援するシステムを導入している
失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ
大分県別府市にある社会福祉法人「太陽の家」は“日本パラリンピックの父”と呼ばれた医師の故・中村裕(ゆたか)博士(1927〜1984年)が障がいのある人の社会参加を支援するために1965年に創設しました。「太陽の家」では、たとえ身心に障がいがあっても働く能力には関係なく、仕事や生活の場においてユニバーサルな環境づくりに努めています。
No Charity, but a Chance!―保護より機会を!―
「太陽の家」の創設者・中村裕博士は1951年に九州大学医学専門部を卒業後、同大学の整形外科医局に入局しました。当時未開の分野であった医学的リハビリテーション研究のため英国のストーク・マンデビル病院に留学し、ルードヴィッヒ・グットマン博士の教えを請いました。そこではリハビリテーションにスポーツを取り入れ、医師がさまざまな分野の人と連携して、脊髄損傷者の社会復帰を支援していました。当時の日本では、治療は安静が中心で、障がいのある人は社会が保護するものとの考えが強く、脊髄損傷などにより障がい者になった方の社会参加は極めて稀でした。帰国後に中村博士は身体に障がいのある人の社会参加、特に仕事を通じての自立とスポーツに情熱を注ぎました。
中村博士は、1964年東京パラリンピックで日本選手団団長を務め、評論家の秋山ちえこ氏や作家の水上勉氏との出会いなど数々の経験から、障がいのある人は仕事を持ち自立することが最も必要であるという信念に至りました。そして「保護より機会を!」、「世に身心(しんしん)障がい者はあっても仕事に障がいはあり得ない」という理念の下、1965年に「太陽の家」を創設しました。
「太陽の家」では、オムロン、ソニー、ホンダ、三菱商事、デンソー、富士通エフサスなど日本を代表する大企業と提携して共同出資会社をつくり、多くの障がいのある人を雇用しています。障がいのある人の作業環境の改善や治工具・自助具の導入を進め、障がいのある人の職能を開発し、手作業からライン作業、単純作業から熟練作業や頭脳労働など多くの成果を上げています。
また、本部のある別府市亀川を中心に、障がいのある人が施設に閉じこもるのではなく、一市民として地域と積極的に関わっていくことを目指して、大分県に対して「福祉の町づくり計画」を提唱しました。
パラスポーツにおいては、大分県身体障害者体育協会や日本身体障害者スポーツ協会の設立に参画し、1961年に日本で初めて「大分県身体障害者体育大会」を開催しました。さらに、1975年の第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック大会:現在のアジアパラ競技大会)、1981年の第1回大分国際車いすマラソン大会等を成功に導き、今日まで引き継がれています。
故 中村裕博士
「太陽の家」年表
1965年(昭和40年) 太陽の家 開所
1972年(昭和47年) オムロン太陽株式会社 設立
1978年(昭和53年) ソニー・太陽株式会社 設立
1981年(昭和56年) ホンダ太陽株式会社 設立
1983年(昭和58年) 三菱商事太陽株式会社 設立
1984年(昭和59年) デンソー太陽株式会社 設立
愛知太陽の家 開所
1985年(昭和60年) オムロン京都太陽株式会社 設立
1986年(昭和61年) 京都太陽の家 開所
1995年(平成7年) 富士通エフサス太陽株式会社 設立
2020年(令和2年) 太陽ミュージアム 開館
中村裕博士と大企業との出会い
障がいのある人が地域で自立することなど考えられなかった時代に障がいのある人が労働者になる工場の設立を呼び掛けた中村裕博士の“No Charity, but a Chance!”~保護より機会を!~という熱い想いに多くの企業家たちが共鳴しました。
オムロン創業者/立石一真氏
われわれの働きで
われわれの生活を向上し
よりよい社会をつくりましょう
この社憲の精神のもと、障がい者雇用に取り組んでいる。
ホンダ創業者/本田宗一郎氏
おい、どうしてだ。
涙が出てきてしょうがないよ。
やろう!ホンダもこういう仕事をしなきゃダメなんだ
中村博士の案内で「太陽の家」を見学した際の言葉。
ソニー創業者/井深大氏
障がい者だからという特権なしの厳しさで
健丈者*の仕事よりも優れたものを、
健丈者*の仕事よりも優れたものを、
という信念を持って
*障がいがなく「丈夫」な人はいるが、「常に」健康な人はいないという、故・井深氏の考え方を踏まえて表記したもの。
社会福祉法人
太陽の家 理事長
山下達夫氏
やました・たつお/1959年山口県下関市生まれ。1歳の時に高熱が続きポリオとなり車椅子生活となる。1984年三菱商事太陽(株)に入社し、2014年代表取締役社長、16年会長に就任。18年退任と同時に太陽の家理事長に就任。太陽の家が共生社会の先進モデルとなり「障がいのある人が取り残されることのない社会」を目指し、近年は特に精神障がいのある人、発達障がいのある人の雇用に力を入れている。
企業と連携、仕事に選択肢を
「太陽の家」は、大分県内では別府市亀川を中心に、本部をはじめ、いくつもの共同出資会社や就労支援施設、生活支援の場などがあります。県外では、愛知県蒲郡市や京都市にも同様の拠点があります。現在、在籍者は約1800名で、このうち障がいのある方が約1100名です。障がいのある方とない方が共に働き、地域と交流を深めながら生活しています。また“No Charity, but a Chance!”を理念とし、3本の柱を掲げて運営しています。一つ目は、パラスポーツの推進です。中村先生が情熱を注いだ、太陽の家の活動の原点ともいえます。二つ目は、社会貢献です。昨年9月、ロシアの軍事侵攻を受けて避難した聴覚障がいのあるウクライナ人の方を受け入れました。現在は当法人の宿泊施設で生活し、働いています。三つ目が、社会参加です。障がいのある人が働き、納税者になることで自立への大きな一歩を踏み出すことができます。
「太陽の家」の大きな特徴は、企業と連携しているところだと思います。就労支援施設もあるので、利用者はさまざまな場所で職業訓練ができ、自分に合った職場を選ぶことができます。1970年代は、オムロンやソニーなど製造業が中心でしたが、手足に障がいがあっても頭脳の分野で能力を活かせるようにと、1983年、共同出資会社として、IT関連企業である三菱商事太陽株式会社が設立されました。デジタル社会の到来を予見し、製造業以外の職域開拓のために三菱商事(株)に協力を求めたのも中村先生の功績です。私も三菱商事太陽(株)でシステムエンジニアとして働いていました。
インクルーシブな「まち」に発展
新規事業や働き方改革については、常に先を見据えて取り組んできました。コロナ禍よりずっと前から、通勤が困難な社員に対して在宅勤務を実施していました。敷地内には、最先端スポーツであるドローンサッカー®のアリーナも設置し、ドローンの利用拡大を目指すベンチャー企業も入居しています。今後市場拡大が見込まれるドローンのメンテナンスは当法人が事業として担うつもりです。他にも、遠隔操作ロボットを活用した実証実験やeスポーツ支援などを進めています。
中村先生は、晩年、私の手を握られ「一家に一台、パソコンの時代が来る。山下、頼むぞ」とおっしゃいました。その手の温もりは今でも忘れることができません。これからもデジタル社会に対応した新規事業に注力していきたいです。
「太陽の家」は、職場、住居、商業施設もすべてある、一つの「まち」だと思います。別府市の人口は約11万人ですが、その約1割が障がいのある方だといわれています。私たちの先輩方が積極的に地域に出てくれたおかげで、飲食店はどこもバリアフリーに、タクシーも当たり前に乗れるインクルーシブな「まち」に発展していきました。機会がございましたら、皆様もぜひ見学にいらしてください。