インタビュー

2017/01/06

それも一局、これも一局

株式会社ミライロ 代表取締役社長
一般社団法人日本ユニバーサルマナー協会 代表理事

垣内俊哉

 年頭にあたり、「HEART & DESIGN FOR ALL」のパートナーとしてタッグを組んできたひとりの青年について、あらためてご紹介します。ユニバーサルデザインの総合コンサルティング企業である株式会社ミライロの代表取締役社長 垣内俊哉さんです。

  1989年生まれ、今年28歳になる垣内さんは、「骨形成不全症」という遺伝性の病気のため幼いころから骨折を繰り返し、車いす生活を余儀なくされました。高さ106㎝という車いすの視点だからこそ気付くことをビジネスにするべく、大学在学中に仲間と起業。バリアフリーのビジネスモデルを片っ端からビジネスコンテストに応募し、1年間になんと13もの賞を受賞。障害(バリア)を価値(バリュー)に変えることができる、と実感しました。それがミライロの掲げる企業理念「バリアバリュー」です。

  東京2020の決定が追い風となり、世界中から多彩なお客さまが訪日しています。また国内に目を向ければ世界に類を見ない「超高齢化社会」という現実。垣内さんは「超高齢化先進国の日本だからこそ、ユニバーサルデザインにおいても先進国であらねばならない」といいます。国籍、性別、年齢、障害の有無に関わらず、誰もが自分らしく暮らせる社会を実現するために、私たち1人ひとりにできることは何か。垣内さんはこんなヒントをくれました。「段差をスロープにするには時間もコストもかかる。でも車いすを安全に持ち上げられさえすれば段差は軽々越えられる。ハードは変えられなくてもハートは変えられる」と。障害のある人や高齢者への適切な接し方を、誰もが身に付けられるマナーと考え、垣内さんは「ユニバーサルマナー」と名付けました。

  そんな垣内俊哉さんは、2020年に向け全力疾走を続けるために、しばしピットイン中。ミライロ病室支店 支店長としての日々の中で、特別手記を寄せてくれました。垣内さんは今、何を見つめ何を想っているのでしょう。皆さんの新たな気付きにもつながる、メッセージをお届けします。

<垣内俊哉さん特別手記>

最初の決断

 進学、就職、転職、家の購入や結婚、離婚。人生には、人それぞれ幾つもの岐路があり、大きな決断をしなければいけない時がある。僕にとっての最初の決断は、17歳の春のことだった。足で歩けないことを悲観的に考え、障害の克服を目指していた。高校を中退し、手術を受けた。朝から晩までリハビリ漬けの毎日が、僕の青春になった。甲斐も虚しく、歩けるようにはならなかった。その後、自ら命を絶とうとするも失敗し、僕は死ぬことすら許されず、仕方なく生きる日々を過ごした。僕にとっての初めての決断は、大きな挫折という形で幕切れを迎えた。

残された道

 月日が流れ、自身の障害と決別するのではなく、共に歩むことを決断した。企業理念は、「バリアバリュー」。障害を取り除くのではなく、障害を価値に変えるため、二十歳の時に起業した。この決断に勇気は必要なかった。僕にとっての最後の生きる道だった。あの頃は、スーツを着るというより、スーツに着られていた。だから、精一杯の背伸びをして、少しずつ、大人の仲間入りを果たし、経営者になった。日本全国を飛び回り、海外へも足を運ぶようになり、慌ただしい日々を過ごした。障害と向き合うより前に、いつの間にか、悩んでいたことさえ忘れていた。コンプレックスやトラウマに悩んでいる時、忘れよう、忘れようと思うほど、それは肥大化した。一朝一夕とはいかずとも、気にならない日がくるのだと知った。僕は歩けない自分に慣れて、向き合えるようになっていた。

 三途の川

 3年前、僕の心臓は止まった。息を吹き返す可能性は25%、目を覚ましても十中八九、後遺症が残るとされた。数日間、眠り続けた末、僕は無意識の内に、生きることを決断したらしく、奇跡的に目を覚ました。「三途の川がバリアフリーじゃなかったので帰ってきました!」。今ではすっかり鉄板トークになった。失ってはじめて気づくことがあるというが、僕も例に漏れず気づかされたのだった。死にかけてはじめて、明日があることに心から感謝した。

 死にたくない

 順風満帆に見えた日々から一転、「また手術が必要である」と聞かされた日、手足の震えを止められなかった。今までは失うものがなかったから、なにも怖くなかった。大人になったのか、「死にたくない」という思いが、僕の身体を支配した。検査を進める内に、目を伏せたくなる現実が一つずつ増えていき、残された選択肢に困惑した。「手術をしても良くなる保証はない」、その一方、「手術をしなければいつかは動けなくなる」とのことだった。自分を奮い立たせようと、手当たり次第、前向きになれるはずの言葉を紡ぐも、心が晴れることはなかった。「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」などと言い聞かせては、なんて無責任な言葉なのだろうと、唇を噛んだ。

遺書を書く

 五里霧中で立ちすくんでいた時、大学の恩師と食事に行く機会があった。目の前の選択について助言を求めたところ、一語一語を布で包むように先生は言った。「歩きたかったのに、歩けなかったから、今の君がいる。どちらの道を選んでも、どんな結果にたどり着いても、君らしい人生になる。大丈夫。27年間、君はそうやって君らしく歩いてきたのだから」。食事の席にも関わらず、涙は止まらず流れ続けた。心のどこかで答えは決まっていた。誰かの後押しを、「大丈夫」の一言を、ずっと待ち続けていたのだと思う。それから、二つの遺書を書いた。一つは「バリアバリュー」と題し出版した書籍で、いつなにがあってもいいように自分を残した。もう一つの遺書は本物のそれで、自身亡き後、社員や家族が迷わないように意思を残した。

 二度目の三途の川

 手術室に入って、緊張はピークに達した。講演会や記者会見で話す時、意中の人へ思いを伝える時、いろんな緊張があったけど、きっとこれが生涯一番だろうなぁと、手術台の上でそんなことを思った。酸素マスクを付ける。麻酔の点滴が始まる。意識がスゥーッと遠のき、そして、目が覚めた。8時間にも及ぶ手術が無事終了したことを聞く。何度も嘔吐を繰り返し、痛みに悶え苦しみ、数日経って、平穏が訪れた。今回も、三途の川はバリアフリーじゃなかった。

 病室支店の開設

 入院する直前、前線から離れることをブログで公表した。「病室支店へ異動になります」。一見して、わかりづらいタイトルだけど、僕の決意表明だった。今回の決断は、引退でも、休業でもないのだと。手術をしても良くなる保証はないとされたように、今もなお、いつ退院できるかはわかっていない。でも、信じたい。たとえどこにいようと、どんな状況であろうと、自分にできることがある。自分だからできることがある。株式会社ミライロの病室支店として、僕の闘病生活が始まった。

新たな一局へ

 手術を終え2ヵ月近く経ってもなお、寝たきりの状態は変わらず、天井と向き合い続けている。リハビリを始めるにあたり、過去の治療や経過を参考にすべく、10年前の日記を開いた。「死にたい」という文字を見つける度、胸に深く突き刺さった。そして、気づく。生きるのが嫌なのではなく、何としても生きようともがいていた。死にたいは、「生きたい」の裏返しだった。読み進めると、一つのページに目が留まった。「囲碁には、あの時こうしていればという一手がある。でも、Aを取っても一局であるし、Bを取っても一局である。どちらを取ってもそれは一局であって、どちらの手を選んでもいい」。大きな選択を迫られた時どうするべきか、囲碁を例に考察をまとめていた。もしかしたら、手術をせずにいればもっと仕事ができたのに、なんて思う日が来るかもしれない。それでも、どの道を選ぼうと、一局であることに変わりはない。人生の選択において、正しい答えも、間違っている答えもない。すべては地続きだったのだから。それも一局、これも一局と考えると、天井だけの世界が少しだけ広く、明るくなった気がした。僕は今、新たな一局を、人生を歩いている。

 

垣内さんの連載コラムはこちらからご覧いただけます

https://heart-design.jp/column/

 

プロフィール

1989年愛知県生まれ岐阜県育ち。2012年立命館大学経営学部卒業。10年、在学中に株式会社ミライロ設立。15年日本財団パラリンピックサポートセンター顧問に就任。ユニバーサルデザインの総合コンサルタント。

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